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コロナ禍に思うこと

2021.01.05

こんにちは、SEA RANCHの織田です。


新型コロナウイルスが猛威をふるっています。12月中旬にイギリスで見つかった「変異種ウイルス」は今や世界で、日本でも感染者が出ています。


コロナウイルスという存在がこの地球に急に現れたことにより、ひとりひとりの人間の在り方が強烈に炙り出されているように感じます。


もともと、車の運転中や、お酒が入った時、自分より立場の弱い人に対して、その人の本質が出やすいという事は昔から言われていた事ですが、


そういった特定の条件下ではなく、「全世界一斉に24時間、その人の在り方が常に出ている時代」ではないかと思います。



そして、「自分がどのように相手に受け取られているか?」には関心は低く、

「相手の在り方を常に見張っているような」そんな殺爆とした雰囲気を感じます。



今回、ブログに記事を書こうと思ったのは、


果たして、この世の中に「絶対的な正解(正義)」はあるのでしょうか?ということを言いたかったからです。



コロナ禍において、OKとNGの判断を常に強いられていると思います。


例えば、名古屋市在住であると想定して、お友達から食事に誘われたとします。

人数は? レストランの広さや対策は? 個室の有無は? お友達の居住エリアは? いつぶりに会えるのか?


このお誘いに行くのか行かないのか? その判断のよりどころとなる上記のようなチェック項目に対する正解はあるのでしょうか? 


つまり、4人はOKで、5人はNGという判断の「正解」は存在しているのかどうかということです。


また、岐阜で食事会なら行くけど、東京なら行かないですか?

月に1回の食事会なら断るけど、5年ぶりの集まりなら行きますか?



また、「外食・ジム・旅行・美容室」こういった項目は、「仕事・学校・スーパー」などの項目と比較すると判断が分かれるところだと思います。

 

外食はOKだけど、旅行はNGですか?(例えです)  

美容室はOKだけど、ジムはNGですか?(例えです)

自分自身の、この判断基準のもとになっているのは何ですか?


政府の判断に委ねますか?


でも、政府はご存知の通り、方針が二転三転しますよ? そもそも方針がないと言ったほうがいいかもしれません?(あったとしても、それは多くの国民のための方針ではないのかもしれません)


では、メディアはどうでしょうか? 世の中の人がどう思っているのか?その大多数の意見を参考にしてみますか?


でもテレビは、11月までは「GOTOは悪だ!」といっていたのに、GOTO中止を決めたら、すぐに「ホテルや旅行代理店が大変だ!」と言っていましたよ。


多くの国民の意見を代弁しているというよりは、どうやらずっと政府の批判をして、いたずらに国民の不安を煽っているように感じます。(安倍さんの時は、逆に、ずっと忖度していたのに不思議ですね)



曖昧な、その時々で変わる、居住エリアによっても違う、高齢者と同居しているかどうかでも変わる、健康度合い(年齢)でも違う、そんな全く異なるバックボーンの人たちが、お互いがお互いを

「私は我慢しているのに、あの人たちは好きなことをして!」という思いが、憎しみを生んでいるように思います。

でも、「我慢しているポイント」が人と違うというだけではありませんか?


意外に自分も食事に出かけたりしていませんか? 

仕事で名駅に行ったついでとはいえ、高島屋を覗いたりしていませんか?

それを我慢している人から見たら、自分もそのように思われているかもしれませんよ。

(例えです。織田が行くな!行く人はありえない!と思っているということではありません。むしろ一人で覚王山の好きなお店にランチに行っていますので。)




試しに、ご家族で、「外食・ジム・旅行・美容室」に行くかどうかの答え合わせをしてみてください。親御さんと、配偶者さんと、お子さんと、お友達とやってみてください。

細かいチェック項目も含めてですよ?


どうですか? 一致しましたか?


ちなみに我が家では、一致しません。まあ、わかっていましたけど。


なので、私は、自分の判断基準は持ち合わせていますが、(その判断基準の元になる情報も、テレビを全くあてにすることなく、自分が正しいと思う情報ソースをもとに統括的に判断しています)、それが「正義だ」とは思っていません。正確にいうと、自分にとっての正義は、他者にとっては悪になり得るからです。その逆もしかりです。




だから、みんな、それぞれが思う、正義があるわけですが、その正義が一致しない以上は、争いが起こるわけです。それが、まさに今、日本中で(世界中で)起こっているわけです。

「分断が進んでいる」と感じます。

コロナワクチンの摂取が始まる時に、この分断はピークを迎えるのかしれません。ワクチンを摂取する人と、しない人、それぞれの正義が、対立することでしょう。


最終的に、私が何を言いたいかというと、

「自分以外の、他者の、意見、考え方」を受け入れてみてはどうでしょうか?ということです。

「多様性を受け入れる」と言えるでしょうか。


その人にとって、それが正義なのですから。


「自分が正しい」と、攻撃するのをやめませんか? 


それは他の人から見ればあなたも攻撃されることをしているかもしれませんよ。



(ただ、そのかたの判断基準になる情報がどちらか一方に偏っていることが多くあります(テレビしか見ていない場合)。その場合、「こういう情報はご存知ですか?」ということをこちらからお話しすることはあります。これは、そのかたの考え方を否定しているのではなく、もう一方の情報も知った上でもう一度判断されてはいかがでしょうか?ということです。)



AとBの意見、考え方があった場合、メディアはいつも、どちらか一方に肩入れした論調です。しかもその意見がコロッと正反対に変わったりします。その論調に同調する人はいつもその考え方に影響されて心がついていけていない、不安定な様子です。そして、そのテレビで流れる意見、例えばAが正しいという論調だと、Bの行動をする人を攻撃します。しかしある時Bが正しいとなれば、今度はAを攻撃します。

果たして世の中、全て、2元論で善悪が語れるのでしょうか?白か黒か?OKかNGか? そんなにはっきりしたものなのでしょうか?


古来、日本には水墨画があります。白、黒と間には無限の濃淡が存在します。これは日本人の繊細な感性を表現する芸術です。描く作家も繊細ですが、それを理解する日本人も繊細です。


侘び寂び、や、空気を読む、ということも日本人の精神性や美意識、美徳を表す言葉なのではないかと思うのでうが、そういったことは、今の世の中ではダサいのでしょうか? しゃべらなくても相手の雰囲気を察することができるのは、いいように人に使われるからダメなのでしょうか?

欧米中国(わかりやすいかと思い例にしましたが気分を害した方は申し訳ありません)のように、自分の意見をはっきり主張し、権利を勝ちとることがこれからのグローバルスタンダードなのでしょうか?


私は、どちらも正しいと思います。どちらかが正しくてどちらかが間違っているとは思いません。相手の気持ちもわかった上で、自分の気持ちも正直に話すことができる。それがいいのではないでしょうか?



私は、世界平和や、戦争がなくなればいい。という大きい話をしたいのではありません。それは望むものではなくて、多くの人が、多様性を認めることで、その結果として争いがなくなるということであって、それ無くして、戦争がなくなるということはあり得ないと思います。


自分にとって、一番近い存在の人。パートナーなのか、親なのか、子供なのか、親友なのか、その人の、価値観を受け入れることができているでしょうか? 結婚は価値観が同じ方がうまく行くと言われています。確かにそうだとは思います。しかし、お金、仕事、教育、家事分担、コロナ、ありとあらゆる項目の価値観が合致する人にであうことはあるのでしょうか? 私はその確率は限りなく0%に近いと思います。つまり、ある程度は共有できるけど、30%ぐらいは合わない。という状態だと思います。だから、その部分で喧嘩することになると思うのですが、それが、決定的に相容れない場合は、離婚するという選択肢か、どちらかの言い分に我慢して従うということになろうかと思います。


一番近い、存在の人でさえ、相容れない価値観を持っているのに、まして友達、近所の人、職場の人、同じマンションの人、同じ学校の人、他の県の人、日本以外の国の人、と合致することがありえるのでしょうか? 



様々な価値観の人がいる。それぞれが正しい。だから、「受け入れる」。


赤の他人の行動にイライラするよりも、一番大切な人の価値観を受け入れる努力をする。


できなくても理解しようと努力する。尊重する。そんな心持ちが、大切なんじゃないかと思うのです。



偉そうに書きましたが、自戒の意味を込めてあえて書き記しました。








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